ペラ州イポーのキンタ渓谷からクアラ・ルンプールのクラン渓谷にかけての一帯はマラヤン・ティン・ベルト(Malayan
Tin Belt)と呼ばれ、世界最大のスズ生産地として名を馳せました。1980年のスズ生産量は61,400トンで世界一でした。そして、キンタ渓谷はその中で最大の産地でした。
タンジュン・トゥアラン Tanjung Tualang は、キンタ渓谷として知られているキンタ地域の小さな町です。町は西キンタ町議会(Majlis
Perbandaran Kinta Barat)の管理下にあります。他の近くの町としては、キンタバレー
Kinta Valley, Kampung Baru Chendrong, バトゥ・ガジャ Batu Gajah, Kampung
Gajah, Teluk Intan, Tronoh, Tronoh Mines, Malim Nawar, Gopeng, Kampar があります。
タンジュン・トゥアランは、1900年代の初め頃、マレーシアの主要なスズ鉱山町の1つでした。町名は、Tualang
の木、或は、Toh Allang Chinese Tin Ltd に由来しています。
1900年代半ばに経営されていたスズ鉱山会社のリスト。
- Lower Perak Tin Dredging
- Southern Kinta Consolidated
- Southern Malayan Tin Dredging
- Austral Amalgamated Tin
- Osborne & Chapple
- Pernas Chartered Management
- Malaysian Mining Corporation
1970年、タンジュン・トゥアランには世界最大サイズのスズ浚渫機(マレー語で
Kapal Korekとしても知られている)が5台あり、また、他の小さなタイプが多数散在していました。地元の鉱山会社は、"Palong"タイプの採掘技術の使用を選択しましたが、それはヨーロッパの会社のものです。
今この鉱区は、淡水エビ/魚を養殖するための淡水池(マレー語で Lombong として知られている)に転換されるか、或は、アブラヤシ農園に転換されるかのどちらかです。タンジュン・トゥアランはまた、ゴム農園の広大な地所を持っています。タンジュン・トゥアランは淡水エビで有名で、淡水エビタウン(Freshwater
Prawn Town)というニックネームで呼ばれたりします。
また、タンジュン・トゥアランは防衛省による綿密なモニタリングの下で、マレーシア政府の”地下兵器テストコンプレックス”のホスト役でもあります。この地下施設のサイトは非公開ですが、いくつかの手がかりは
Changkat Tin として知られる近くの領域を指摘しました。この領域へのアクセスは制限されています。
アブラヤシ農園とスズ露天掘り跡の池
Pasar Pagi (朝市)
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