04 June 2013

マレーシアの歴史 先史時代

180万年前頃のアフリカで、原人(ホモ・エレクトスHomo erectus)は猿人から進化したとする仮説が立てられています。彼らは猿人よりも適応力に優れ、少なくとも150万年前までにはアフリカからユーラシア大陸へ進出したようです。原人は脳の発達(脳容量は950ミリリットルから1100ミリリットルで、現生人類の75%程度)とともに、体つきが現代人に近い状態となり、また、それ以前の人類よりも精巧な石器を作り、肉食を多用するなど、特定の食物に依存しなくなったことにより、分布範囲を広げたと考えられています。(北京原人、ジャワ原人、ネアンデルタール人)


レンゴン渓谷 Lenggong valley

2008年、マレーシア ペラ州のレンゴン渓谷で、初期の類人猿(おそらくホモ・エレクトス)の石の手斧(Stone hand-axes) が発掘されました。これは東南アジアに原人が住んでいた最古の証拠になります。(レンゴン渓谷の考古遺跡は、2012年6月30日にユネスコ世界遺産に登録されました。)

Ulu Perakにあるレンゴン渓谷は、その考古遺跡がマレーシアの先史時代の多くの形跡をあらわにし、考古学にとってマレー半島で最も重要な地域の一つです。それは半島における人類の最も古い活動と考えられている場所です。今日でもそれはまだ、緑の植物や石灰岩の丘に囲まれた小さなカンポンを持つ田舎の地域です。レンゴンは野外博物館にたとえることができ、伝説、骸骨、洞窟壁画、宝石、陶磁器、武器や石器のような貴重な発見物の原産地です。レンゴン地域の洞窟の多くは、この地域に住んで狩りをしていた古代の人類の証拠を明らかにしました。

レンゴンの町はペラ州イポーから約100km北に位置しています。レンゴンを訪れるには、南北高速道路のクアラカンサー(クアラルンプールから約3時間)の出口No.143で下り、レンゴンへのルート76(Jalan Baling - Kuala Kangsar)を使用します。レンゴンへの道路は、ほとんどがアブラヤシ農園やジャングルで囲まれています。牛や水牛が農業の一部であるように、それらは道路に沿ってしばしば見られます。今日、ジャングル(約100万年)は激しい違法伐採の危機に瀕しているようです。


約3.5万年以上前 - 旧石器時代(前期旧石器時代)

1958年に東マレーシア サラワク州 Niah洞窟で、4万年前に遡るマレーシア最古の人の頭蓋骨が出土されました。この洞窟は先史時代の重要な遺跡です。考古学者は、サバ州のラハッ・ダトゥ近くのMansuli渓谷で発見された石器により、ずっと以前の年代を主張していますが、正確な年代測定分析は未だ公表されていません。


約3.5万年前~紀元前約1万年前 - 旧石器時代(後期旧石器時代)

人類学者は、雲南からマレーシアへ移動した新参者の船乗りプロト・マレー族を追跡しました。ネグリト族や他の原住民は後の来訪者によって丘へ追いやられました。この時期に、人々は高度な石の武器を持って狩りをしたり、調理したり、服を着ることを学びました。会話テクニックも向上しました。


紀元前1万年~紀元前5,000年前 - 中石器時代

1991年にペラ州のレンゴン渓谷で発掘された11,000年前のペラの男性と8,000年前のペラの女性の骨は、解剖学的に最古の現代人の骨格です。この遺跡には鉄床や石ハンマーのような設備を持った石器の製造エリアが有ります。考古学では、レンゴン渓谷で見つかった出土品は、人が石器を作り、装身具を使用していたことを示しています。また、ペラ州イポー Tambunでは洞窟壁画も発見されています。


紀元前2,500年前 - 青銅器時代

マレー半島は古代の海上貿易で十字路になり、より多くの新しい種族が船乗りを含めて到着しました。マレーシアの海岸に来た船乗りは、インド、エジプト、中東、ジャワや中国の人々が含まれていました。
プトレマイオスはマレー半島を黄金の半島と命名しました。


マレー半島の先住民

3つの民族(ネグリトNegritos、セノイSenois、及び、プロト・マレーProto-Malays)に分けられます。

ネグリト族
マレー半島のおそらく最初の先住民族です。中石器時代の狩猟民族ネグリトは、おそらくセマン族の祖先(マレー半島で長い歴史を持つネグリト族)です。

セノイ族
セマン族の祖先まで遡る母方のDNA系統の約半分とインドシナからの後の祖先の移住者の約半分の複合グループと見られています。学者たちは、セノイ族は約4,000年前に半島南部に言語と技術の両方を持ってきた初期のオーストロアジア語族の農学者の子孫であると示唆しています。

プロト・マレー族
ムラユ・アスリ(先住民マレー)、または、ムラユpurba(古代マレー)として知られているプロト・マレーは、オーストロネシア語族の起源の者としても知られており、紀元前2500年から紀元前1500年の間にマレー諸島に移行したと考えられています。今日の有名なプロト・マレーは、Moken、Jakun、オラン・クアラ、TemuanとOrang Kanaqです。

より多様な起源を持ち、マレーシア百科事典の初期の歴史では、プロト・マレーの起源について、3つの説(雲南説、ニューギニア説、台湾説)が指摘されています。

雲南説

雲南由来のプロト・マレーに関する説は、R.H Geldern, J.H.C Kern, J.R Foster, J.R Logen, Slametmuljana, Asmah Haji Omarにより支持されています。

人類学者は、約1万年前まで、プロト・マレー(彼らは船乗りだった)の移行を追跡しました。彼らは雲南から南シナ海へメコン川に沿ってボート(カヌーまたはペラフperahu)で巡航し、様々な場所で落ち着き、紀元前1500年までにマレー諸島に移行しました。メコン川は長さおよそ4180km、チベットから始まり、中国雲南、ビルマ、タイ、ラオス、カンボジアおよび南ベトナムを流れています。

この説を立証する他の証拠には次のものが含まれます:

 ①マレー諸島で発見された石器は、中央アジアの道具と類似している。
 ②マレーの習慣とアッサムの習慣の類似性。
 ③カンボジアの先祖の発祥地がメコン川の水源で、マレー語とカンボジア語は同類言語であるという事実。

雲南について

歴史初期の雲南の住民は、1960年代に発掘されたホモ・エレクトスの「元謀原人Yuanmou Man」の化石から先史時代へ遡ることができます。紀元前221年、秦始皇帝は中国統一を成し遂げ、雲南はそれ以降中国の州になりました。

彼らは全地域の至る所で広げられた米を栽培する文化と共に、米を食べる民族の先祖でした。雲南のメコン川流域の人々の発祥地の初期の名前は文字通り "12の千の田"を意味するシーシュアンバンナーXishuangbanna(Sipsongpanna)ですが、それはDai少数民族の本拠地でもあります。Xishuangbannaは雲南の殆ど山岳地帯エリアよりも低い高度に位置しています。


ニューギニア説

プロト・マレーは、海洋学や農業技術に精通した船乗りであると信じられています。彼らは現代のニュージーランドとマダガスカルの間の島々を長距離周回しました。約2000年間、彼らはナビゲーションガイド、乗組員として、また、インド、アラブ、ペルシャ、中国の商人への労働者として仕えていました。彼らは様々な場所に住みつき、様々な文化や宗教を採用しました。


台湾説

6000年前に中国南部の特定グループは、一部は台湾(今日の台湾の原住民は彼らの子孫です)へ、そしてフィリピンへ、後にボルネオ島(約4500年前、今日のダヤク族Dayakと他のグループ)へ移行しました。

これらの古代の人々はまた、スラウェシへ向かう者とジャワ、そして、スマトラに進む者に分裂しました。最終的な移行は、およそ3000年前のマレー半島でした。ボルネオ島からサブグループは、およそ4500年前、現代の中央および南ベトナムのチャンパChampaに移動しました。ベトナムやカンボジアからのドンソンやHoabinhianの移住の痕跡もあります。今日パタニとして知られている場所からタイ南部への移行もありました。これらのグループは全て今日の台湾にさかのぼるDNAと言語の起源を共有し、そして、これらの古代の人々の祖先は中国南部にさかのぼります。


第2のマレー Deutero-Malays

ヒンドゥー・仏教信仰の入植者Kambujasやインド・ペルシャの王族や商人だけでなく、中国南部からの商人や他の古代の貿易ルートに沿った商人、これらの人々は先住民族ネグリトやその土地の船乗りやプロト・マレーとそれぞれ結婚しました。こうして、新しい民族グループが形成され、Deutero-Malaysとして知られるようになりました。

最初に到着したプロト・マレー(ムラユ・アスリ)は農業の技術を保有していました。一方、紀元前1500年頃に加わり、海岸線に沿って居住した第2波のDeutero-Malaysは、進歩した漁業技術を持っていました。移動中に、両方のグループは、ジャワ(インドネシア)のような南方の島の民族、及び、オーストラロイドAustraloid, ネグリトや Melanesoid起源の先住民族と結婚しました。

紀元前300年頃、プロト・マレーと先住民のいくつかのグループは、入植者Deutero-Malays(部分的にカンボジアとベトナムのChamsの血統を引く鉄器時代あるいは青銅器時代の人々)の一連の移行により、内陸のさらに上流の丘エリアに退却することを間接的に強制されました。

金属の道具を使用する半島の最初のグループDeutero-Malaysは、今日のマレーシアのマレー人の直接の祖先であり、彼らは先進農業技術をもたらしました。彼らは、低い身長、暗い皮膚、ウェーブのかかった髪のわずかに高い頻度、長頭のはるかに高い割合、蒙古襞の著しく低い頻度を持つプロト・マレーと親族ではありますが、大幅に区別されます。共通の文化や社会構造は共有されていたものの、マレー群島全体は政治的に断片化しました。

Deutero-Malaysは前任者と比較して遊牧民ではなかった代わりに、彼らは定住し、社会のメインユニットとしてカンポンkampungsを確立しました。カンポンは通常、川岸や海岸地域に位置していて、一般的に食料やその他の必需品を自給しました。紀元前の終わりまでに、これらのカンポンは外部世界との取引に携わり始めました。