原人(ホモ・エレクトス)は、少なくとも150万年前までにはアフリカからユーラシア大陸へ進出しました。2008年、マレーシア ペラ州 レンゴン渓谷で、ホモ・エレクトスの石の手斧
が発掘されました。これは、東南アジアに原人が住んでいた最古の証拠となります。
紀元前2500年、マレー半島は古代の海上貿易で十字路になり、インド、エジプト、中東、ジャワ、中国などより、多くの民族が到着しました。プトレマイオスはマレー半島を”黄金の半島”と命名しました。マレー半島の先住民は、ネグリト族、セノイ族、及び、プロト・マレー族の3つの民族に分けられます。
ヒンドゥー教・仏教信仰の入植者Kambujasやインド・ペルシャの王族や商人だけでなく、中国南部からの商人や他の古代の貿易ルートに沿った商人たちは、先住民ネグリトやプロト・マレーと結婚し、新しい民族Deutero-Malaysが形成されました。
進歩した漁業技術を持ち、金属の道具を使用するDeutero-Malaysは、今日のマレーシアのマレー人の直接の祖先です。Deutero-Malaysは遊牧民ではなく定住し、社会のメインユニットとしてカンポンを確立しました。カンポンは通常、川岸や海岸地域に位置していて、一般的に食料やその他の必需品を自給しました。紀元前の終わりまでに、カンポンは外部世界との取引に携わり始めました。
1世紀頃、モンスーン(季節風)を利用した航海術が発達し、アジア間の海上交易が活発化しました。インド洋と南シナ海の中間に位置するマレーシアは、海上貿易の要衝として古くから商人や旅行者が往来したため、さまざまな文明や民族の影響を受けてきました。インドから入ってきたヒンドゥー教と仏教文化は初期のマレーシアの歴史を占めました。
2,3世紀には、主にマレー半島の東側に本拠を置く30もの多くのマレー王国がありました。最も初期の王国の中で、現在のマレーシアに本拠を置くと知られている王国は、クダに本拠を置くランカスカの古代王国です。それは6世紀までマレーシア北部の一部を支配していたカンボジアの扶南国に密接に結び付けられました。
4世紀後半から5世紀、東南アジアでインド文化の受容が進展した国家群が出現します。マレー半島の人々は、マレー住人の言語や文化に大きな影響を持っていたヒンドゥー教と仏教のインド宗教を採用しました。
6世紀初め、中国の文献によると、マレー半島に”赤土国”という王国が存在したといわれています。赤土国では大乗仏教が盛んに行われるとともに、バラモン教も行われていました。しかし、当時のマレーシアについては不明な点がたくさんあります。
7世紀はアジアの海上交易史上の転換点となりました。西アジアにおけるイスラム文明圏の形成と東アジアにおける唐の中国再統一により、アジア交易は内陸ルート(シルクロード)と海上ルートを介して、さらに活発化しました。特に物資の大量輸送が可能な海上交易が発展し、マラッカ海峡経由のルートがアジアの海上交易の主要ルートになりました。
こうした状況に対応し、7世紀後半(670年頃)にスマトラ南部に成立したシュリーヴィジャヤ王国は、南アジア交易の中心地となりました。7世紀から13世紀の間、マレー半島の多くは仏教徒シュリーヴィジャヤ王国下にありました。6世紀以上にわたり、シュリーヴィジャヤの大王たちはマレー群島の主力になった海上王国を支配する一方、中国へ朝貢しました。当時、西アジア、インド、ジャワの商品は、この王国を介して中国市場へ流通しました。
クメール王国、シャム王国、および、チョーラ王国が、小さなマレーの王国を支配しようとしました。シュリーヴィジャヤの権力は、資本家とその家臣の関係が決裂するとともに、12世紀から減衰しました。仏教徒マハラジャMaharajaの権力は、イスラム教の広がりによって更に損なわれました。13世紀後半、スコータイのシャム王はマラヤの大部分を彼らの支配下に置きました。
14世紀末、シュリーヴィジャヤの中心地パレンバンはジャワのマジャパイト王国に占領されました。この時、パレンバンの王族パラメスワラは、配下の海上民とマレー半島に移り、マラッカ(ムラカ)王国を創始しました。1402年、パラメスワラは貿易のためにマレー半島の西海岸のマラッカ港を設立しました。マラッカ海峡地域は、モンスーンの交替を待つのに適した”風待ちの地”であり、本来的に中継港市の用件を備えていました。とはいえ、当初のマラッカはシャムに服属する小国にすぎませんでした。
15世紀初め、中国の明王朝の皇帝は朝貢の勧告のため、7回にわたり鄭和の艦隊を東南アジア以西の各地へ派遣しました(鄭和の南海遠征
1405-1433)。このとき、マラッカはこの艦隊の寄港地となりました。武将 鄭和は、パラメスワラをマラッカの正当な統治者として認識し、中国へ彼を連れて帰りました。中国の皇帝は、定期的な貢物と引き換えに、シャムの攻撃の脅威からマラッカを保護することを申し出ました。マラッカはシャムからの自立の好機とみなし、明へ朝貢を繰り返しました。
一方、マラッカは東南アジア以西で活躍していた西アジアやインドのムスリム商人との関係強化のためにイスラムを受容しました。同じ頃、マラッカはシャムから独立し、マレー半島やスマトラで支配を拡大しました。これ以降、マラッカは東南アジアのイスラムの中心地として、また当時の世界有数の中継港市として繁栄します。
1511年、ポルトガルはマラッカを占領し、マレーシアに成立した最初のヨーロッパの植民地支配国となりました。1528年頃、マラッカの最後のスルタンの息子は半島の南の先端に逃れ、彼はそこでジョホール王国を創始しました。また、もう一人の息子は、北にペラ王国を創始しました。
1607年、アチェ王国はマレー群島の中で最も強力で豊んだ国家として上昇しました。Iskandar
Mudaの支配下では、彼は多くのマレーの国家に対しスルタンの統治を拡張しました。注目に値する征服は半島でスズを生産するペラ王国でした。
このような海峡の覇権を巡る闘争は、1641年にオランダがジョホール王国と同盟を結び、マラッカからポルトガルを追い出し、覇権を獲得するまで進みました。ジョホール王国はオランダに支持されて、ペラ王国以外のマレー王国の全てに緩い覇権を確立しました。オランダはマラッカのローカルの問題に干渉しませんでしたが、同時に、ジャワのオランダ植民地へ殆どの貿易を転換しました。
17世紀後半、海岸沿いの小さなマレー国家は、スラウェシのオランダ植民地から逃れたブギスの移民を導きました。1699年、ブギスは旧ムラカ王室系統の最後のスルタンを暗殺後、ジョホール王国を掌握しました。(スルタン・マフムード弑逆事件)。ブギスは、ジョホール、クダ、ペラ、および、スランゴールの王国へ権力を拡大しました。
中央スマトラからのミナンカバウはマレーへ移動し、1718年、ミナンカバウ人ラジャ・クチルがジョホールを占領しました。1722年、ブギス人ダエン・ムレワがジョホールからラジャ・クチルを撃退し、ジョホールの王族スレイマンがジョホール・リアウ王国を創始しました。ダエン・ムレワは同王国の初代ブギス人副王に就任しました。
ザイナル・アビディン(スレイマンの弟)はトレンガヌ王国を創始しました。1766年、ジョホール・リアウのブギス副王家のラジャ・ルムはスランゴール王国を創始しました。1773年、ミナンカバウ王族ラジャ・ムレワはヌグリ・スンビラン王国を創始しました。1775年、ロン・ユヌスはクランタン王国を創始しました。
ジョホール王国の陥落により、マレー半島は部分的にアユタヤ王国のシャム王によって占められました。1777年、シャムのソンクラー国主に福建省出身の華僑・呉譲が就任。以後、ソンクラー国を拠点としてシャム軍がパタニ王国、クダ王国への侵略の動きを見せ始めました。1786年
シャムの攻撃を恐れたクダ王国は、非常時におけるイギリスによる兵力援助の約束と引き換えに、イギリス東インド会社にペナン島を賃貸しました。
1791年5月1日 シャムが隣国のパタニ王国 (現在のタイ深南部三県) まで攻めて来たため、クダ王国はイギリスに派兵を要求しましたが断わられました。クダ王国はフランシス・ライトに5年間騙されていた事が発覚、クダ王国は10,000人からなる大軍によるペナン島回復戦を計画しましたが、事前にフランシス・ライトに察知され、ペナンを取り返すどころか対岸の拠点セベラン・ペライを奪われてしまい、ペナンを正式にイギリスに明け渡しました。
1795年、ナポレオン戦争時、イギリスはオランダの同意を得て、そのエリアに関心を持つと考えられるフランスに先んじてオランダ領マラッカを占領しました。1815年、マラッカがオランダに返還された時、イギリスのスタンフォード・ラッフルズは代替の拠点を探しました。そして、1819年、ラッフルズはシンガポールの地政学上の重要性に着目し、ジョホール王国の内紛に乗じて、ジョホール王国のスルタンからシンガポールを獲得しました。
マラヤでのイギリスの覇権は、1824年のマレー半島 (マラッカ海峡) を中心とする地区の勢力範囲を定めた英蘭条約締結により正式なものとなりました。この条約で、イギリスは植民地のスマトラ島西海岸のベンクーレンとオランダのマラッカを交換しました。オランダはマラッカから撤退し、マラヤでの全て利権を放棄、シンガポールとマレー半島はイギリスの勢力圏とされました。一方、スマトラとシンガポール海峡の南側のリアウ・リンガ諸島は、オランダの勢力圏とされました。
ペナンとマラッカ以外の西マレーシアの王国は、イギリス支配期以前に形成されていた王国に起源します。そのうち、ペラとクダ以外の7つの王国は、18世紀以降にジョホールやジョホール・リアウ王国から自立し、独自の王国を形成しました。こうした諸王国の自立が示すように、18-19世紀のマレー半島では、王国間あるいは王国内で紛争が頻発しました。
19世紀はマレー半島の経済開発が進展した時期です。ペラのラルートを中心としたスズ鉱山開発、ゴムのプランテーション開発など、後のマレー半島の経済ともかかわりを持つ開発が進められました。マレー半島は伝統的に人口の希薄地域でした。錫と金の採掘やゴムのプランテーションの成長、および、それに関連するサービス産業は、労働力不足を補うため、外国人移民を必要としました。スズ鉱山労働者となった中国人移民、ゴムのプランテーション労働者となったインド人移民はその典型です。
19世紀以降の移民の流入は、従来都市部に限られていた多民族社会を農村部にまで拡大し、また、在地社会の民族別人口構成を大きく変化させました。こうしてマレー半島は、”複合社会”の度合いを深めていきました。この19世紀以降の人口構成の変化は、後の民族運動の展開に大きな影を投げかけることになります。
海峡植民地でのスズ鉱業の商業的重要性は、半島上の貴族間の内紛につながりました。1861年、ラルートで中国人秘密結社間の抗争が発生し、マレー人貴族を巻き込み、ペラの王位継承紛争とも連動しました。また、1867年にはペラおよびスランゴールでも紛争が発生し、それはほかのマレー諸国やシンガポールの商人をも巻き込む紛争へ発展しました。こうして19世紀中頃のマレー半島は、慢性的な紛争に突入します。
イギリスは海峡植民地の経済的利益を守るため、また慢性化した紛争解決のため、介入政策への転換が必要と決断します。1874年、イギリスはペラとパンコール条約を締結しました。イギリスはペラの紛争解決に乗り出したのを皮切りに、マレー半島地域に対して積極的な介入政策を展開しました。イギリスはスルタンに助言し、彼らの王国の実行支配者となった「レジデント」を任命し、介入したマレー諸国と個別に条約を締結しました。イギリス領マラヤの成立です。
1941年、日本軍はクランタンのコタ・バルへ上陸、2ヶ月でイギリス領マラヤ、シンガポール、北ボルネオ、ブルネイ、サラワクのマラヤ全域を占領し、日本軍政を敷きました。中国人を在留敵国人と見なし、大変残酷に彼らを扱いました。いわゆる、シンガポール華僑虐殺事件の間に、マラヤとシンガポールの80,000人以上の中国人が殺されました。中国企業は没収され、中国の学校は閉じられたか全焼されました。マラヤ共産党(MCP)の中国人は、イギリスの支援を受けて占領されたアジア諸国で最も有効な抵抗力となったマラヤ人民抗日軍(MPAJA)のバックボーンとなりました。
日本はマレーナショナリズムを支持すると主張しましたが、彼らは1909年にイギリスに引き渡されていた4つの北部の王国、クダ、プルリス、クランタンとトレンガヌを彼らの同盟国タイに再併合することを許可し、マレーナショナリズムを怒らせました。日本占領中に民族間の緊張が発生し、ナショナリズムが育ちました。1945年、日本は無条件降伏しイギリスが復帰しました。マレー半島では、マラヤ共産党がイギリスに対して武装蜂起しました。
1957年8月31日、マラヤ連邦独立 (初代首相トゥンク・アブドゥル・ラーマン)。サラワクとサバはイギリス直轄植民地になりました。サラワクとサバはマラヤほどあまり経済的に開発されず、それらの地域の政治的指導力は、独立を求めるには余りにも弱かった。中国人マジョリティーを持つシンガポールは、1955年に自治を達成し、1959年に若い社会主義指導者リー・クアンユーが首相になりました。
1961年、アブドゥル・ラーマンはイギリスの植民地であったブルネイ、マラヤ、サバ、サラワク、シンガポールの全てから成る
"マレーシア構想"を発表しました。1963年8月31日に北ボルネオ、シンガポールのイギリスの領土は独立を認められ、1963年9月16日にマラヤ、サバ、サラワク、シンガポールから構成されるマレーシアが成立しました。2年後、シンガポールは連邦から追放されました。
強力なインドネシア共産党(PKI)に支持されたインドネシアのスカルノ大統領は、マレーシアを彼の国家に対する”新植民地主義”構想と見なし、主に地元の中国人コミュニティの分子を巻き込むサラワクにおける共産主義の反乱を支持しました。インドネシアの非正規軍は、マレーシアと英連邦の軍隊により牽制されていたサラワクへ侵入しました。この”Konfrontasi”の期間、経済的、政治的、軍事的対立は1966年スカルノの失脚まで続きました。
フィリピンは、北ボルネオはスールーの一部であり、従ってフィリピンの領土であると主張し、連邦の構成に反対しました。1966年、新大統領フェルディナンド・マルコスは主張を取り下げました。しかし、主張はそれ以来復活し、未だにフィリピンとマレーシアの関係を損なう論点となっています。
独立を達成したマレーシアでは富の不均衡が最大の社会問題となっていました。都市部には、一部マレー人富裕層と植民地時代に移民した華人やインド人が暮らし、経済の実権を握り、一方、大多数のマレー人は農村で貧しい暮らしをしていました。、1969年5月13日、一部マレー人と華人の衝突がクアラ・ルンプールで勃発しました。マレー人の反動は、約6,000の中国人の家や会社が焼かれ、少なくとも184人が殺害され、500人を超える死傷者を出す惨事となりました。
ラーマン首相は非常事態を宣言し、1970年9月21日、副首相トゥン・アブドゥル・ラザク率いるナショナルオペレーション評議会が政権を握りました。新政府は緊急時の国内治安維持法(ISA)を使用して、政治活動に対する厳しい制限を置きました。ISAは裁判なしでどんな人も無期限に拘禁する政府権力を与えました。
1971年に議会が再召集され、新政府連立政権 国民戦線(Barisan Nasional)が結成されました。これは、統一マレー国民組織(UMNO)、マラヤ華人協会(MCA)、マラヤ・インド人会議(MIC)、全マレーシア・イスラム党(PAS)、マレーシア人民運動党(Gerakan)、そして、サバ州とサラワク州の地域政党を含みました。
1970年、貧困ライン以下で生活しているマレーシア人の75%がマレー人でした。マレー人の大半は依然として農村労働者であり、マレー人はまだ現代経済から大部分は除外されていました。アブドゥル・ラザク第2代首相は、マレー人を優遇することでマレー人の教育と経済状況の向上を図り、貧困の撲滅と人種間の経済格差を縮小し、国全体を引き上げていこうとするブミプトラ政策を始めました。1970年代と80年代の間に、農村部の貧困は特にマレー半島で減少しました。
マハティール第4代首相は国の至る所に中等学校や大学を大きく増やし、英語ではなくマレー語で教える政策を強化しました。これは、大きく新しいマレー人の専門職階級を作る効果がありました。中国人の家庭は、子供たちをシンガポール、オーストラリア、イギリスやアメリカの大学に通わせました。これは多くのマレーシア人を西洋諸国の生活に触れさせ、不満の新しい源泉を作る意図しない結果を生みました。
これらすべてのマレー人新卒者の仕事を見つけるために、政府は経済に介在するためにいくつかの機関を作りました。これらの中で最も重要なものは、PERNAS、PETRONASとHICOMでした。これらは直接多くのマレー人を採用しただけでなく、マレー人に優先的に割り付けられた新しい技術や管理上の仕事を生み出すために、経済の成長分野にも投資されました。結果として、経済でのマレー資本の割合は、1969年の1.5%から1990年の20.3%に上昇、また、マレー人により所有されたすべての種類のビジネスの割合は、39パーセントから68パーセントに上昇しました。マレー人の所有のように見える多くのビジネスが、中国人によってまだ間接的にコントロールされていたので、この後者の数字は当てになりませんが、経済のマレー人のシェアが相当に増加していることは間違いありません。
マハティールは民営化を増進し、マレー人だけではなく、むしろ全てのマレーシア人の経済的富を増加させるように計画された新開発政策(NDP)を導入しました。その期間は、農業を基盤とした経済から、コンピューターや家電のような分野の製造業や産業に基づいた経済への転換を見ました。
マレーシアの景観が多くのメガプロジェクトの出現とともに変化しました。これらのプロジェクトの中で注目に値するものは、ペトロナスツインタワー(当時としては世界で一番高いビル、そして、2010時点でもまだ、最も高いツインタワービル)、クアラルンプール国際空港(KLIA)、南北高速道路、セパン・インターナショナル・サーキット、マルチメディア・スーパー・コリドー(MSC)、バクン水力発電ダム、新しい連邦行政首都プトラジャヤ(2010年までに首都機能移転)の建設でした。
1970年以降のマレーシアの急速な経済発展は、マレーシアの政治の変化と調和していませんでした。1970年に通過された国内治安維持法(ISA)はそのまま残っています。マレーシアは1974年以来通常選挙を持っていますが、ほぼすべての議席を獲得しているUMNOにコントロールされた国民戦線による事実上一党独裁国です。メディアと大衆の抗議は厳しく制限され続け、政府の批判はほとんどありません。ISAは反体制派を沈黙させるために使用され続けており、UMNO青年運動メンバーは物理的に相手を威嚇するために配備されています。
2007年11月、マレーシアは2つの反政府集会に揺さぶられました。40,000人が参加したBersih
Rallyは、選挙制度改革のキャンペーンをするために、11月10日にマレーシアのクアラルンプールで開催されました。それは、マラヤ連邦が1957年に独立を達成して以来政権を握っている与党の国民戦線(Barisan
Nasional)を激しく支持するマレーシアの選挙制度中の腐敗と矛盾の主張によって促進されました。別の集会は11月25日にHINDRAFが主導し、マレーシアの首都で開催されました。主催者ヒンドゥー権利行動力HINDRAFは、マレー民族の差別的な優遇政策に対する抗議を呼びかけました。群衆は5,000人~30,000人と推定されました。2008年10月16日、政府(アブドゥラ第5代首相)はその組織を"国家安全保障への脅威"と分類し、HINDRAFは禁止されました。
2008年3月の議会選挙、前副首相アンワル・イブラヒム率いる野党の躍進で、連立与党の国民戦線が議会で長く保持していた3分の2議席を確保できなかったため、2009年、アブドゥラは2期目の任期4年を残し首相を辞任しました。
ナジブ第6代首相は、国内の経済問題や政治改革へ焦点を持ち就任しました。首相としての初日、最初のアクションとして、野党党首アンワル率いる人民正義党とパンイスラム党により発行される2つの反対の新聞Suara
KeadilanとHarakahdailyの禁止令の解除と国内治安維持法の下で拘束された13人の釈放を発表しました。また、裁判無しで無期限に拘束を可能にする非常に批判された法律の包括的な見直しを行うことを誓約しました。
2010年9月16日、ナジブは1Malaysiaキャンペーンを発表し、民族調和、国民の団結、および、効率的な統治を強調するために、内閣、政府系機関、および、公務員に呼びかけました。ナジブによって明瞭に表現された1Malaysiaの8つの価値は、忍耐力perseverance、卓越した文化culture
of excellence、受理acceptance、忠誠心loyalty、教育education、謙虚さhumility、誠実さintegrity、および、能力主義社会meritocracyです。
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