05 June 2013

マレーシアの歴史 現代

1970年には、貧困ライン以下で生活しているマレーシア人の75%がマレー人でした。マレー人の大半は依然として農村労働者であり、マレー人はまだ現代経済から大部分は除外されていました。政府の対応は、1971年から1990年までの4、5カ年計画のシリーズを通して実施されることになっていた1971年の新経済政策でした。計画は2つの目標がありました:貧困、特に農村部の貧困の解消、および、人種と繁栄の間の識別の撤廃です。この後者の政策は、中国人から、それまで専門職階級のわずか5%を占めていただけのマレー人へ、経済力を決定的に移すことを意味すると理解されました。

貧困は、新しい製造業の仕事を生み出すために、新しく開墾されたに農地に250,000人のマレー人を再定住させる農業政策、農村インフラへのより多くの投資、及び、農村地域の自由貿易地域の創造を通じて取り組まれました。プランテーション農業の低賃金労働者のグループは、労働力の割合としてどんどん減少していましたが、少しは、この労働者の生活水準を改善するために行われました。1990年までに、マレーシアの最も貧しい地域は、国の後ろに残されたかなり遅れた農村部のサバとサラワクでした。

1970年代と80年代の間に、農村部の貧困は特にマレー半島で減少しましたが、政府の政策の批判者は、これは主に国全体の繁栄成長(重要な石油と天然ガスの埋蔵の発見が大部分の結果)、及び、国家の介入よりもむしろ農村の人々の都市への移行によるものと主張しています。ここ数年は、マレーシアの都市、特に、農村マラヤ、及び、インドネシア、バングラデシュ、タイ、フィリピンのようなより貧しい隣国の両方からの移民を引きつける都市になったクアラ・ルンプールは急成長を見せました。都市の貧困は、スラム街が都市のあちこちに生じて初めて問題になりました。

教育相として、その後首相としてマハティールを中心に最初に動かされた政府政策の第2のアームは、マレー人への経済力の移動でした。マハティールは国の至る所に中等学校や大学の数を大きく拡大し、英語ではなくマレー語で教える政策を強化しました。これは、大きな新しいマレー人の専門職階級を作る効果がありました。マレー言語の大学で勉強するためのマレー語に十分に流暢な中国人はほとんどいないので、それはまた、高等教育への中国人のアクセスに対する非公式の障壁を作りました。したがって、中国人の家族は、シンガポール、オーストラリア、イギリスやアメリカで、子どもたちを大学に行かせました。2000年までに、例えば、60,000人のマレーシア人がオーストラリアの大学から学位を取得しました。これは多くのマレーシア人を西洋諸国の生活に触れさせ、不満の新しい源泉を作る意図しない結果を生みました。マハティールはまた、マレーの女性のための教育の機会を大幅に拡大しました。2000年までに、すべての大学生の半数は女性でした。

これらすべてのマレー新卒者の仕事を見つけるために、政府は経済に介在するためにいくつかの機関を作りました。これらの中で最も重要なものは、PERNAS(National Corporation Ltd.)、PETRONAS(National Petroleum Ltd.)とHICOM(Heavy Industry Corporation of Malaysia)でした。それらは直接多くのマレー人を採用しただけでなく、マレー人に優先的に割り付けられた新しい技術や管理上の仕事を生み出すために、経済の成長分野にも投資されました。結果として、経済でのマレー資本の割合は、1969年の1.5%から1990年の20.3%に上昇し、また、マレー人により所有されたすべての種類のビジネスの割合は、39パーセントから68パーセントに上昇しました。マレー人の所有のように見える多くのビジネスが、中国人によってまだ間接的にコントロールされていたので、この後者の数字は当てになりませんが、経済のマレーのシェアが相当に増加していることは間違いありません。中国人はマレーシアの経済生活において不釣り合いに強力なままでしたが、2000年までには、中国人とマレー人のビジネス間の違いは、特に情報技術のような成長分野で、両民族の人々によって所有され、管理された多くの新しい企業につれて、次第に薄れていきました。

1997年のアジア通貨危機によりほんの一時的に中断された1970年以降のマレーシアの急速な経済発展は、マレーシアの政治の変化に調和していませんでした。1970年に通過された鎮圧措置はそのまま残ります。マレーシアは1974年以来通常選挙を持っています。また、キャンペーンは選挙時に道理に従って自由ですが、マレーシアは、DAPがいくつかの中国人の都市部の議席、そして、PASがいくつかの農村部のマレー人の議席を獲得しているとは言え、通常ほぼすべての議席を獲得しているUMNOにコントロールされた国民戦線による事実上一党独裁国です。DAPとPASは正反対の政策を持っているので、彼らは効果的な野党連合を組むことができませんでした。メディアと大衆の抗議は厳しく制限され続け、政府の批判はほとんどありません。国内治安維持法(ISA)は反体制派を沈黙させるために使用され続けており、UMNO青年運動メンバーは物理的に相手を威嚇するために配備されています。


歴代首相の政策

マハティール政権

1969年の危機後の民主主義の回復は、UMNO内でトゥン・アブドゥル・ラザク(第2代首相)の死後(1975年)に増加した権力の闘争、論争を引き起こしました。病気のダトゥ・フセイン・ビン・オンDatuk Hussein Bin Onn(第3代首相)は彼に代わりましたが、統制のための戦いは副首相を任命することに変わりました。マハティール・ビン・モハマドMahathir bin Mahamadは、他の民族のコミュニティにもまた役立とうとしたブミプトラの主張者に選ばれました。

マレーシアはマハティール(第4代首相)のプレミアシップの下、1980年代からの経済成長、1985-86年の不動産市場の不況、そして、1990年代半ばまでの成長に戻りました。マハティールは民営化を増進し、マレー人だけではなく、むしろ全てのマレーシア人が経済的富を増加させるように計画された新開発政策(NDP)を導入しました。その期間は、農業を基盤とした経済から、コンピューターや家電のような分野の製造業や産業に基づいた経済への転換を見ました。

マレーシアの物質的景観が多くのメガプロジェクトの出現とともに変化したことも、この期間中にありました。これらのプロジェクトの中で注目に値するものは、ペトロナスツインタワーPetronas Twin Towers(当時としては世界で一番高いビル、そして、2010時点でもまだ、最も高いツインタワービル)、クアラルンプール国際空港KL International Airport(KLIA)、南北高速道路North-South Expressway、セパン・インターナショナル・サーキットSepang International Circuit、マルチメディア・スーパー・コリドーMultimedia Super Corridor(MSC)、バクン水力発電ダムBakun hydroelectric dam、新しい連邦行政首都プトラジャヤPutrajaya(2010年までに首都機能移転)の建設でした。

マハティールの長い首相職(1981-2003)の下では、マレーシアの政治文化は、多民族のマレーシアが管理された民主主義を通してのみ安定した状態を保つことができるというマハティールの信念により、ますます集中的かつ権威主義的になりました。1986-87年には、彼は自身の党の中でリーダーシップの挑戦に直面しました。野党党首を含む106人を逮捕するため、1987年10月に国内治安維持法(ISA)が発動されました。司法部のヘッドとマハティールのISA使用を疑問視していた最高裁の5人のメンバーも逮捕され、また、マレーシア群衆への弾圧も起きました。

これは、政府内の内部紛争後の1997年に。副首相アンワル・イブラヒムAnwar Ibrahimを確証がない罪で解雇と拘禁したことで最高潮に達しました。この迫害の1編中の司法部の共謀は、マレーシア民主主義の衰退の特に明瞭なサインと見なされました。アンワル事件はアンワル氏の妻Dr. Wan Azizah Wan Ismailに率いられた新党人民正義党People's Justice Party、または、Parti Keadilan Rakyat(PKR)の形成につながりました。1999年の選挙で、PKRはAlternative Front (Barisan Alternatif)として知られているDAPとPASとの連合を組みました。この結果、PASはUMNOから多くのマレー議席数を獲得しましたが、多くの中国人有権者はイスラム教徒PASとのこの不自然な同盟に賛成せず、DAPはベテランのリーダーLim Kit Siangを含むマラヤ華人協会MCAに議席の多くを失う原因となりました。Wan Azizahはペナンで彼女の夫の元地盤で勝ちましたが、その他では、Keadilanはほとんど影響を与えませんでした。

1990年代後半、マレーシアはアジア通貨危機に揺さぶられました。マハティールは、先ず国際通貨基金(IMF)が承認した政策と戦いました。しかしながら、リンギ切下げと深まる景気後退は、外国人投資家からマレーシアを保護し、建設プロジェクトや金利の低下を通じて経済を再活性化することをベースにした彼自身のプログラムを作成させました。その政策はマレーシアの経済を2002年までに回復させましたが、マハティールと、IMFの政策を支持した彼の副官アンワル・イブラヒムの間の意見の相違をもたらしました。これは、政情不安を引き起こし、アンワルの解任につながりました。アンワルは捏造された告発と考えられる件で逮捕され、政治から追放されました。2003年、マレーシアで最も長く首相を務めたマハティールは、自発的に彼の新しい副首相アブドゥラ・アフマッド・バダウィAbdullah Ahmad Badawiを支持して引退しました。


アブドゥラ政権

アブドゥラ・アフマッド・バダウィ(第5代首相)はアンワルを解放し、それは穏やかな自由化の兆しと見なされました。2004年の選挙では、DAPは1999年に失った議席を回復しましたが、アブドゥラ率いる国民戦線は事実上PASとKeadilanを一掃して大勝利を収めました。この勝利は無力な野党と相まって、主にアブドゥラの個人的な人気と、たいていのマレーシア人の生活水準をほとんど一流の世界標準へ引き上げたマレーシアの経済の力強い回復の結果として見られました。

政府の目標は、ビジョン2020(Wawasan 2020)で表されたように、マレーシアが2020年までに先進国になることです。しかしながら、マレーシアが新しい経済的成熟に進展するために、一流の世界政治制度(複数政党制民主主義、言論の自由、司法の独立、および、市民的・政治的自由の回復)をいつ、どのように得るかという問いには未回答のままです。

2007年11月、マレーシアは2つの反政府集会に揺さぶられました。40,000人が参加した2007年のBersih Rallyは、選挙制度改革のキャンペーンをするために、11月10日にマレーシアのクアラルンプールで開催されました。それは、マラヤ連邦が1957年に独立を達成して以来政権を握っている与党の国民戦線(Barisan Nasional)を激しく支持するマレーシアの選挙制度中の腐敗と矛盾の主張によって促進されました。別の集会は11月25日にHINDRAFが主導し、マレーシアの首都で開催されました。集会主催者ヒンドゥー権利行動力Hindu Rights Action Forc(HINDRAF)は、マレー民族の差別的な優遇政策に対する抗議を呼びかけました。群衆は5,000人と30,000人の間であると推定されました。両方の場合において、政府と警察は場所を奪取してから集会を阻止しようとしました。2008年10月16日、政府はその組織を"国家安全保障への脅威"と分類し、HINDRAFは禁止されました。

2008年3月の議会選挙、前副首相アンワル・イブラヒム率いる野党の躍進で、連立与党の国民戦線(Barisan Nasional)が議会で長く保持していた3分の2議席を確保できなかったため、2009年、アブドゥラは2期目の任期4年を残し首相を辞任しました。


ナジブ政権

2009年4月3日にマレーシア与党連合・国民戦線の中核政党統一マレー国民組織(UMNO)のナジブ・ラザクDato' Sri Haji Mohammad Najib bin Tun Haji Abdul Razakが第6代首相に就任しました。父親は第2代首相アブドゥル・ラザク、第3代首相のフセイン・オンは叔父にあたり、ナジブは政治家の名家血筋とみなされています。

ナジブは、国内の経済問題や政治改革へ焦点を持ち就任しました。首相としての初日、最初のアクションとして、野党党首アンワルDatuk Seri Anwar Ibrahim率いる人民正義党People's Justice Partyとパンイスラム党Pan Islamic Partyにより実行される2つの反対の新聞Suara KeadilanとHarakahdailyの禁止令の解除と国内治安維持法の下で拘束された13人の釈放を発表しました。

解放された拘束者の中には、反政府運動をリードした罪で2007年12月に逮捕された2人のインド人活動家、3人の外国人、および、8人の疑わしいイスラム過激派がいました。ナジブはまた、裁判無しで無期限に拘束を可能にする非常に批判された法律の包括的な見直しを行うことを誓約しました。彼はスピーチで、貧困に対する取り組み、マレーシア社会の再構築、すべてのための質の高い教育へのアクセスを拡張、そして、新たな推進”公共事業に対する情熱passion for public service”に対する関与を強調しました。彼はまた、Radio Televisyen Malaysiaのようなすべての無料放送局のデジタル・テレビ移行計画を延期し断念しました。

2010年4月の来日を前にNHKの単独インタビューに応じ、日本がマレーシアで強力な影響力を保つには日本国内の経済の立て直しが不可欠と述べ、日本経済の先行きが不透明ならば他のアジアの国々が存在感を増すとして、中国と韓国のマレーシア国内での台頭を挙げました。また、ルックイースト政策を掲げた1980年代とは状況が異なるとして、中国との関係を重視するとしました。

1Malaysiaは、2008年9月16日にナジブにより発表された継続的なキャンペーンで、民族調和、国民の団結、および、効率的な統治を強調するために、内閣、政府系機関、および、公務員に呼びかけられました。ナジブによって明瞭に表現された1Malaysiaの8つの価値は、忍耐力perseverance、卓越した文化culture of excellence、受理acceptance、忠誠心loyalty、教育education、謙虚さhumility、誠実さintegrity、および、能力主義社会meritocracyです。

2008年9月17日に、ナジブはマレーシアの市民とより効率的にコミュニケーションし、且つ、より広範な1Malaysiaキャンペーンを支援するために、サイト1Malaysia を立ち上げました。彼は政策イニシアチブを強調表示し、且つ、マレーシア人に政府へのフォーラムを提供するためにサイトを使用しました。1MalaysiaキャンペーンはFacebookやTwitterなどのソーシャルメディアプラットフォームを広範囲に利用しています。

政府変革プログラム Government Transformation Programme

ナジブ政権は、公共サービスの質を向上し、効率を高め、政府の透明性をより高めるために、政府変革プログラムを実施中です。具体的な施策は、公共政策の特殊分野の目標を定義するために、関係者や機関とNational Key Result Areasのパフォーマンスを測定する主要業績評価指標Key Performance Indicators(KPI)の使用を含んでいます。マレーシア政府は、透明性、および、政府責任能力を増加させる多くの対策を実行しました。これらの対策は、政府の中の出来事に関する市民とのコミュニケーション、増加した住民参加と精査に対し以前の閉じた政府を開き、また、財政支出に対する公のフィードバックを求めるために、TwitterやFacebookのようなニューメディアを使用しています。

ナジブは、政府をより小さく、より効率的にする彼の約束を守るために、Ministry of Energy, Green Technology and Waterの2つの省を廃止しました。また、合計28人の大臣を任命しましたが、これは以前の政府よりも4人少なく、そして、Unity and Performanceの大臣として、華僑で連立与党の少数党のリーダーTan Sri Dr. Koh Tsu Koonを指名しました。