06 June 2013

マレーシア歴代首相

マラヤ連邦独立後の首相は以下の6人です。

初代首相 1957~1970 Tunku Abdul Rahman Putra
第2代首相 1970~1976 Tun Abdul Razak bin Dato’ Hussein
第3代首相 1976~1981 Tun Hussein Onn
第4代首相 1981~2003 Tun Dr. Mahathir bin Mohamad
第5代首相 2003~2009 Datuk Seri Abdullah Ahmad Badawi
第6代首相 2009~ Dato' Sri Mohd. Najib Tun Abdul Razak
第4代マハティール首相
第6代ナジブ首相

ルックイースト政策(Look East)

「個人の利益より集団の利益を優先する日本の労働倫理に学び、過度の個人主義や道徳・倫理の荒廃をもたらす西欧的な価値観を修正すべきである」とする、マハティール首相が1981年12月15日に提言した日本の集団主義と勤労倫理を学べという政策。

しかし、近年は経済成長著しい中国や欧米への留学が急増し、日本への留学は減少傾向にある。ナジブ首相はルックイースト政策開始から30周年を記念するシンポジウムで、同政策の維持を確認しながらも、日本が世界に先行する省エネや医学といった分野にターゲットを絞って留学生を送り出すとして、政策の転換も示している。


マハティール首相

マレーシアの首相の中では最長の22年間を務め、強力なリーダーシップによりマレーシアの国力を飛躍的に増大させた。

1997年7月、タイバーツの通貨危機を皮切りにアジア通貨危機が発生し、マレーシア通貨は通貨危機発生前の1USドル=2.5リンギから、98年2月には4.2リンギまで暴落した。韓国、インドネシア、タイが国際通貨基金(IMF)に対して財政支援を求め、財政赤字を縮小するための緊縮財政と通貨安定のための高金利政策を採用する中で、マレーシアは為替市場で投機筋からの攻撃を受けながらも、唯一、IMFによる救済策に頼ることなく独力で金融政策を実施した。

金融危機が頂点に達していた1998年8-9月マレーシアでは、金利を上げて国際投資家が自国通貨を売ってしまうのを食い止め、政府の支出を減らして財政を黒字化し、自国通貨に対する信頼を回復するという、IMFの政策を導入しようとするアンワル副首相と、それに反対するマハティール首相との間で対立が深まった。マハティールはアンワルを9月に解任、アンワルはマハティールの強権発動に対して批判を展開した。9月21日、治安維持法違反でアンワルは逮捕され、政治闘争には終止符が打たれた。

マハティールはアンワル解任後、IMF型とは正反対の政策を実行に移した。その一つは、高金利で外国人投資家を誘惑するのではなく、逆に、自国の通貨や株式に対する短期売買を禁止する政策だった。1USドル=3.8リンギに固定することで通貨の安定を図る一方、財政支出の拡大、金利の引き下げの断行を行うことで景気刺激策に打って出た。同時に、資本の海外流出を防ぐために、非居住者のリンギ取引を中央銀行の許可制へ移行、また、1998年9月から1年間は、非居住者がマレーシア株式及びリンギ建資産の売却で得た外貨の持ち出しの禁止を行った。

アジア通貨危機は、タイをはじめとする各国の経常赤字と国内不動産のバブル化とそれに見合わない形で現地通貨が割高に放置されていたこと、対外債務と外貨準備高の不均衡が原因であるが、マハティールは、アジア通貨危機の原因をジョージ・ソロスをはじめとする欧米諸国の投機筋による実需を伴わない投機的取引が原因であると主張した。

マハティールは以前から、IMFとその背後にいるアメリカ政府など、欧米の政府やマスコミがアジアに対して政治的な「腐敗」や経済的な「不公正」、「人権問題」などがあると攻撃してきたことに対抗し、「欧米こそアジアを植民地支配し、人権抑圧をしてきた」「アメリカこそ自国の産業を守るために、不公正な貿易ルールを作っている」といった趣旨の発言を行ってきた。

これらの批判は欧米にとって耳の痛いものであり、以前からマハティールは欧米当局者や人権団体から煙たがられていた。97年にアジア通貨危機が始まってからは、マハティールの欧米批判はさらに強くなり、国際投機家であるジョージ・ソロスを名指しで批判し、ソロスとアメリカ当局が裏でつながってアジアを危機におとしめているとの持論を展開した。

そのため、98年9月にマハティールがIMFと正反対の政策を取り出すと、欧米の役人、アナリスト、マスコミの多くは「マハティールはマレーシアを破滅に追い込もうとしている」と批判した。そして「マハティールはインドネシアのスハルト前大統領と同様、国民の怒りを受けて失脚するだろう」という予測が数多く発表された。

国際経済の教科書的な理論では、通貨や株式に対して、短期間で利益を出すための売買を禁止するといった規制をすれば、自由な売買を好む内外の投資家から敬遠され、その国に投資された資金は流出してしまうとされている。

ところが、マハティールの政策では、マレーシアの通貨リンギの国外での取り引きを禁止し、国内では1ドル=3.8リンギの固定相場にし、リンギの海外持ち出しを制限したため、リンギの相場は安定した。通貨の安定は相場の上げ下げで儲ける投資家にとっては面白くないが、海外からモノ作りをしにやってきたメーカーにとっては有り難いことだった。(一般にメーカーの利益は5%~10%という幅であり、1-2週間のうちに為替相場が何10%も上下するのは危険すぎる)。相場師たちはマレーシアを離れたが、モノ作りをするメーカーは逆にマレーシア通貨の安定を好み、新規投資が海外から入り、こうしたメーカーの輸出がマレーシア経済の回復に貢献した。

また、大規模な公共事業は、たとえば日本のような経済基盤がすでに成熟した国では、自動車がほとんど通らない立派な橋や、利用率の低い文化会館などを生み出すだけの「無用の長物」と化す傾向が強い。しかし、マレーシアは本格的な経済成長が始まってからの年月が浅いので、橋や道路や建物を作れば、作っただけの経済効果をあげやすい状態にある。

1998年、マレーシア経済がマイナス成長から脱する中で、インドネシアが政情不安でスハルトが退陣し、韓国、タイもまた経済的に浮揚するきっかけを掴み損ねていただけに、マハティールの政策運営に対して評価の声が上がった。IMFとマハティールが出した通貨危機に対する2つの対照的な政策のうち、IMFの側に立ってマハティールの政策を批判し、マレーシアの破綻を予言した人々は間違っていたことになる。

IMFが高金利プラス緊縮財政という、それまで東南アジア諸国にとらせてきた政策の欠陥をある程度認めて引き締めを緩和させ、各国の金利が下がっていくのと並行して、タイやインドネシアに経済成長が戻り始めた。東南アジアがIMFという足かせから逃れることができた途端に、経済が回復し始めたのである。

IMFの高金利政策は、海外から入ってきた資金の流出を食い止めることが目的だったが、高金利は同時に、金を借りて商品を作る国内の企業活動に大きな打撃を与えた。たとえば、年に10%の利益をあげられる会社は、銀行から金を借りる際の金利が10%以上になったら利益を出せず、事業を展開できなくなる。また、IMFがタイやインドネシアの政府に支出を減らすよう命じたことは、政府からの補助金が生活に対する支援になっていた貧しい人々を直撃した。インドネシアでは、小麦粉や燃料に対する補助金がカットされ人々の生活がどれだけ苦しくなったかも考える必要がある。