08 June 2013

マレーシアの民族

マレーシアといえば多彩な多民族性で有名です。それでは、マレーシアにはどれだけの民族がいるのでしょうか。半島部の3大民族としては、マレー人、華人、インド人がよく知られていますが、もちろんそれだけではありません。

民族とは一定の文化的特徴を基準として他と区別される共同体という考えがあります。土地、血縁関係、言語の共有(母語)や、宗教、伝承、社会組織などがその基準となります。しかし、この考えですと上記の3大民族は更に細かく分けられることになります。


マレー人

マレー人はマレーシア全人口の6割強を占めて多数派を形成しています。宗教面で見るとほぼ全員がイスラム教徒です。男性は金曜日には正装してモスクに礼拝に行きます。女性はトゥドゥン(スカーフ)をかぶっている人も少なくありません。豚肉はもちろんのこと、それ以外にもイスラム教で定めたやり方に従わない調理方法をした肉は食べてはいけません。

しかし2,3世代前までさかのぼると、スマトラ島のアチェ系やミナンカバウ系、ジャワ島のジャワ系、スラウェシ島のブギス系など、さまざまな種類のグループが混ざっています。マハティール代4代首相の父方の祖先がパキスタン系であることは有名ですが、マレーシアでは実は純粋なマレー人を見つけることはかなり難しいのです。


華人

マレーシア全人口のほぼ4分の1を占める華人を見ても、福建系が4割、広東系と客家系がそれぞれ2割、潮州系が1割、さらに海南系などと分かれています。彼らの使用する言語はお互いにほとんど理解不可能であり、文化的に見ればいくつもの集団に分かれることになります。

もっともこれらは統計上の分類にすぎず、例えば、クアラ・ルンプールやイポーでは広東語、ペナンでは福建語、ジョホール・バルではマンダリンなど、地方によっては出身にかかわらずその地方で使われている言語を使わざるを得ないこともあります。

華人の中では、言語集団よりももっと大きな違いとして英語系と華語系の違いがあります。通っていた小学校によって、英語は得意だけれど中国語はどれかひとつわかる程度で、華語(華人の共通語:マンダリン)となったら会話はもちろん漢字の読み書きも自分の名前ぐらいしかわからないという英語系の華人と、中国語はいくつかの言語のほかに華語もわかるし、漢字の読み書きもできるけれども英語はちょっと苦手という華語系の華人がいます。これは世代や宗教には無関係に親の子育ての方針で分かれるため、兄弟で英語系と華語系に分かれることも珍しくありません。

宗教で見れば、統計上は華人の5割が仏教徒、4割が儒教・道教、3%がキリスト教とされています。仏教徒には、月に何日か決めて牛肉を食べない人もいます。寺では観音(クァンイン)や商売の神である関帝(クァンティ)などを拝み、ほかに華人社会の守り神として太伯公(トーペーコン)も各地で見られます。もっとも、マレーシアでは「無宗教」は「共産主義者」と誤解されるおそれがあるために、登録上は仏教か儒教・道教にしておくという華人も少なくないようです。


インド人

マレーシア全人口の1割弱を占めるインド人のうち、9割近くは南インド出身のタミール系が占めますが、その他にマラヤリ系やテルグ系、そしてシーク系、さらにイスラム教徒のパキスタン系もいます。

宗教で見ると、ヒンドゥー教徒が8割を占めます。しかし、街角でロティ・チャナイを作っているイスラム教徒もいれば、街にはキリスト教徒もいて、どちらもそれぞれ1割近くを占めます。ターバンを巻いて警備員をしているシーク教徒もいますし、スリランカ系の仏教徒もインド人に含まれます。


サバ・サラワク

これにサバ・サラワクを入れて考えるともっと複雑になります。例えばサバにはカダザン・ドゥスン語の方言とまとめられる言葉を話す人々が多数住んでいますが、これは全体でひとつの民族集団なのか、それともいくつかの民族集団に分けるべきなのか、未だに議論の決着がついていません。


以上記述しましたように、同一民族間でも一定の文化的特長を共有しているとはとても言えませんし、逆に、文化的特長で民族を区切ろうとすると、人によって区切り方が違ってきます。何より文化は固定的なものではなく、どんどん新しく生まれ変わっています。結局のところ文化で民族を区切ろうとすることに無理があるのです。それは概観を得るのには便利ですが、枠をはめることでかえって多様性を見えなくするように働いてしまいます。

しかし、それにもかかわらず半島部でマレー人、華人、インド人という捉え方が広く受け入れられているのはなぜなのか。それは、政治経済が民族毎に分かれていたという歴史的背景のため、民族の問題が国の安定を揺るがしかねない火種だったからです。他国からの訪問者にとっては多彩な文化を楽しめるのがマレーシアの特徴ですが、当人達にとってはこの多彩さがトラブルのもとであると考えられてきたのです。


文化集団から政治経済ブロックへ

マラヤ連邦独立(1957年)後、民族の多様性が社会の不安定を引き起こすという問題を解決する方法として、民族による区分をなくそうという案と、民族による区分は維持したうえで民族毎に代表が管轄するという案が唱えられた。このうち国民が選挙を通じて選んだのは後者でした。これにより、それぞれの民族に代表を立て、民族内のことは各民族の代表が管轄し、多民族の事柄にはお互いに干渉しないという規範ができあがっていきました。

こうしてスタートしたマラヤ連邦は、地理的な住み分けはしていないものの、国内で3つの民族がお互いに内政不干渉を守りながら全体でひとつの国家としてやって来たようなものであり、マラヤ連邦はいわば3つの自治民族による連邦国であったと言えます。つまり、マラヤ連邦における民族とは、文化集団としてのイメージは残しながらも政治経済面での相互扶助の枠組みへと実質的な性格を変化させていったと言えます。マラヤの民族とは、もともと文化集団として出発したものの、今ではむしろ政治経済ブロックとして捉えるべきなのです。


3つの枠に押し込められる多様性

3つの民族がそれぞれの枠内で相互扶助を行うという枠組みは、国内の民族の多様性を維持するように働く一方で、逆に様々な多様性を3つの枠に当てはめようとすることにもなります。そのため、各民族の本来在るべき姿が強くイメージされることになり、現実に一人ひとりは多様な文化を実践しているにもかかわらず、「マレー人は・・・だ」「華人は・・・だ」といった思考様式ができあがっていき、そこから外れた人達は、「華人なのに漢字の読み書きができないのはおかしい」「マレー人だったらトゥドゥンをかぶるべきだ」といった社会的圧力を受け、居心地の悪さを感じるようになります。

こうして、「マレー人はイスラム教徒」「華人は仏教徒」「インド人はヒンドゥー教徒」といった思考様式ができあがっていきます。実際には華人にはキリスト教徒も少なくなく、また、インド人とまとめられている人たちのなかにはイスラム教徒もシーク教徒もいます。けれども、3大民族という図式をわかり難くするそれらの要素は語られないことが多いです。

民族がもはや文明集団ではなく政治経済面での相互扶助の枠組みになっているということは、たとえ独自の文化を維持していたとしても独自の民族とみなされないとも見てとれます。16世紀にマラッカを占領したポルトガル人の子孫で現在もマラッカにポルトガル村を造り住んでいるポルトガル系住民、半島部各地に住みイスラム化していない人も多くマレー人からは未開部族とみなされ、オラン・アスリ(先住民族)と総称されて政府の保護の対象とされている各種の先住民族、半島北部に住みクランタン州パシル・マスのワット・プタラマラン寺院でも有名なタイ系仏教徒、早期に比較的少数で中国からマラヤに渡って来て土着化し独自の文化を作り上げたマラッカのババ・ニョニャ、これらはいずれもマレー人や華人などの大分類のなかに分類されています。


3民族から5民族へ

1963年、マラヤ連邦にサバとサラワクが加わりマレーシアが成立しました。このときサバとサラワクに住むマレー人や華人は、半島部の華人やマレー人の一員とみなすのではなく、サバとサラワクそれぞれを1つの枠組みとすることになりました。つまり、マレーシアはマレー人、華人、インド人という3つの民族ブロック、そして、サバ、サラワクという2つの地域ブロックからなる5つの自治民族・地域の連邦国として成立しました。

インド人や華人やマレー人が内部でさまざまな文化集団に分かれていたように、サバとサラワクもその中に様々な文化集団を抱えていてマレー人や華人もいます。しかし、同じイスラム教徒だからといってインド人ムスリムとマレー人を同一視できないように、或いは、同じ仏教徒だからといって華人仏教徒とシンハラ系仏教徒を同一視できないように、マレー人や華人と呼ばれているからといって、サバやサラワクのマレー人や華人を半島部のマレー人や華人と同じととらえることはできません。

状況によっては、彼らは半島部の同じ文化集団に対してより、州内のほかの文化集団に対して親近感を持つことも少なくありません。なので、政治経済面での相互扶助の枠組みという意味でサバとサラワクもそれぞれ民族と呼び、マレーシアにはマレー人、華人、インド人、そしてサバ人、サラワク人の5つの民族がいるという言い方をする人もいます。


寛容さ=無関心

マレーシアの人達は他文化に対して寛容です。しかし、それはほかの文化を一緒に楽しむという意味での寛容さではなく、他人が実践することに文句は言わないが、自分は関わらないという態度を取っています。つまり、この寛容さは裏を返せば他文化に対しては無関心ということでもあります。

それぞれの民族の事柄はそれぞれで管轄し、他の民族には干渉しないというのがマレーシアの民族間関係の原則です。それを守らなければ、お互いに譲り合えない部分で対立を起こし大災害になるというのが、1969年5月にクアラ・ルンプールで起きた民族間の暴動という痛い経験からマレーシア人が学んだ教訓でした。その結果、マレーシアの人達は多民族の状況のなかで生きる知恵として、他民族への干渉を避けるような規範を身につけていったのです。

隣人に関心の目を向け過ぎることはかえって悪い結果につながりかねないので、社会の中の相互扶助もそれぞれの民族の中で行われ、民族を超えては行なわれません。マレーシアの人達がときに他人に冷淡な態度を取ることがあるのは、さまざまな民族が共存していかなければならない状況で生きていく知恵でもあります。もし貴方がマレーシア内のどの民族にも属していないとみなされれば、彼らは手厚くもてなし、色々と世話を焼いてくれるでしょう。


マレーシア民族に向けて

1969年の暴動の結果として導入されたのが新経済政策、通称ブミ・プトラ政策です。これはブミ・プトラ(マレー人およびサバ・サラワクなどの先住民を総称したもの)と非ブミ・プトラ(おもに華人とインド人)という区分をつくり、それぞれの区分の中で別々に競争原理を働かせるシステムです。

このように、現在のマレーシアでは政治経済面で民族の区分を前提としています。しかしそれではマレーシア国民が形成されないというので、同時にマレーシア国民文化なるものを謳って文化面での統合も図っています。

マレーシアでは、十数年前まではマレー人や華人やインド人のことをそれぞれバンサ(民族)と呼んでいました。しかし近年では、マレー人や華人やインド人はそれぞれカウム(種族)であって、マレーシアにはひとつのバンサ、つまりマレーシア民族しかない、という言い方もされるようになってきています。大人達には相変わらず「マレーシアにはたくさんのバンサがいる」と言っている人も多いが、今の大学生達は「マレーシアにはひとつのバンサしかない」と自信満々に答えます。

しかしここで見誤ってはいけないのが、これは決して単一のマレーシア文化なるものを持ったマレーシア民族をつくろうとしているわけではないということです。共通の国民文化を育み、若い世代を中心に文化面ではマレーシア国民文化がますます広がりつつある一方で、政治経済面での5つの民族区分に基づく相互扶助のシステムは依然として強く行なわれています。

このように、政治経済面での分断と社会文化面での統合が同時に進められているのがマレーシアの民族の特徴なのです。2020年には先進国入りを果たすと掲げるマレーシアの目標のひとつに「マレーシア民族の形成」がありますが、この異なるふたつの方向がどう折り合いをつけるのか、それはこれからのマレーシアの人々にかかっています。