極楽洞 Kek Look Tong は、ペラ州イポー市のGuning Rapat に位置する観光名所です。三寶洞・南天洞・霊仙岩などからそれ程離れていないので、これら全てを見て回ることも容易です。しかし、極楽洞だけは住宅地をクネクネと通り抜けて行くので、ちょっと迷うかもしれません。Jalan
Raja Dr. Nazrin Shah 大通りから Jalan Raja Musa Mahadi 通りに入り、その後は極楽洞の黄色い看板を目印に進みます。
極楽洞の石灰岩の岩肌は白く、周囲の植物とマッチし見事な景観を創り出しています。敷地も広大でゆったりとしているので、とてもリラックスした気分になれます。また、地理的条件のためか観光客が少なく、所謂、穴場スポット的な感じのする魅力的な場所です。
極楽洞は、Kek Look Seah(非営利団体)に所有、管理されています。
オープン時間 : 午前7時 ~ 午後6時 祝日を含め毎日オープン
洞窟寺院は、1920年には早くも参拝の場として使用されていました。1960年、洞窟は故
Chooi Ah Kee氏の運営する鉄鉱山サイトの一部となりました。採掘作業は、鉄鉱石を積んだ荷を輸送するローリーが洞窟を貫いてアクセスできるように、洞窟の入り口を拡大するために掘削機が使用されました。
Chooi氏は、もともと”'Tien Hou Gong”という名前の洞窟の小さな祈りの区画の手入れを始めました。
1982年、”'Tien Hou Gong”は、Chooi氏の息子により非営利慈善団体 Kek Look
Seah に引き渡され、洞窟寺院は”Kek Look Tong”と改名されました。Kek Look
Seah 委員会は、洞窟を拡大するだけでなく、近隣の小さな丘からの土壌を用いて、入り口付近の沼地エリアを埋め立て、また、洞窟の床を平らに舗装しました。しかし、印象的な鍾乳石や石筍の形成だけはそのまま残されました。
洞窟の形状が鯉に似ていることを認識し、洞窟を開発するための改装は、このテーマを意識し行われています。洞窟の正面入り口は、龍鯉の頭に見立てていて、その口は天に向かい開きます。後ろの洞窟の入り口に下向きにつながる階段は鯉の喉、後ろの洞窟は魚の腹を象徴しています。そして最後に、駐車場や池に降りる又のあるひと続きの階段は、鯉の尾に似せて作られました。今日、洞窟後部の入り口の周りの埋め立てられたエリアは、訪問者の便宜のための大きな駐車場と美しい庭園になりました。このエリアは、鯉でいっぱいの池や人工の滝のような一連の造園プロジェクト下にあります。
洞窟に向かって右側にたくさんの鯉が泳いでいる池があります。池の中には女神像が建てられています。
鯉の池から少し離れた所に亀が棲んでいる池もあります。目立たない池で見落としがちですが、たくさんの亀が泳いでいるので一見の価値はあります。この池の周りにはオナガザルが岩山から降りてきて食べ物を探していたりします。名前の通りとても長い尻尾を持っています。
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